2013年1月31日木曜日

目で見たとおりの写真

 結論、無理。(現状の技術では)

 無理です。人間の目のダイナミックレンジをナメちゃぁいけない。
 重要なところに意識を向ければ、そこだけしっかり見えるし、実は見えていないものでさえも、人間の目は、それを補完することが出来る。
 錯視の類はその"補完"する能力を利用しているのだ。

 外国語に慣れていない人は、外国語はただの音にしか聞こえないが、慣れている人は言葉として処理している。だから、多少ノイズが混ざろうと、音が小さかろうと、断片的な情報を「聞こえる」として認識している。人間の目と言うのもそのように作られている。
 中華料理屋のオヤジが、日本語の発音が微妙なのに、滑舌悪く注文しても、割としっかり聞き取れるのは、きっとそんなところだろう。

 そして、どうでもいい情報はばっさりと切り捨てて記憶する。だから思い出の景色は美しい。
 景色の手前に電線があってもしっかりキャンセルされる。人混みの合間から少しだけ見たパンダも、他の記憶と混ぜられ、もっとしっかり見た気になる。

 人間は記憶も容易に改竄してしまうぐらいなので、写真のような「リアリティ」には全く及ばない。
 だからこそ、目で見たとおりの写真を作る事は出来ない。

 尤も、その写真でさえも撮り方一つで随分と現実をねじ曲げる事も出来る。
 しばしば言われることだが、「写真」と言う言葉は「真実」を「写す」と言い表される。しかし、英語では「Photograph」となっていて「光」で「図示する」と言う意味になる。
 究極超人あ~るの「光画部」と言うのは、多分、そういう事だね――件の漫画は、寡聞にして読んだことはないが……



 「現実」じゃないならば、何だろうか?
 「それを見た時の感動を写真に写し取りたい」と言うのもちょっと違う気がする。
 何かの刺激に対する受容や反応は、人間それぞれ違う。それがコピーできるって言うのは、まるでSFじみた試みだ。脳科学か心の哲学の範疇の話で、写真の領分ではない。
 自分がその時、何を考えたか、何を思ったか――そう言う事を詩的に語る事は出来る。だが、それも詩と写真の抱き合わせ販売のようなもので、いわゆる総合芸術としての意味はあるが、写真単体を見た時、それが訴えるものはなんなのだろうか? と言う話になる。



 そもそも、人が何をどう思うか? と言う事を、己の意思でコントロール出来るだろうか?
 技巧を凝らし、それに見合った効果を与えるのは、芸術の世界ではよくある事だ。
 しかし、単なる技術発表が芸術だなどとは考えたくないものだ。
 趣味でやっているからには、写真技術者が目標ではないだろうから。

 そうなると、馬鹿みたいに、自分の感じる写真ばかり撮って、誰かにそれを認めて貰う他ないのだろうか?
 それとも、表現というのは、もっと個人的で、孤独なものなのだろうか?

2 件のコメント:

  1. 人間の視覚の制御と同じく、写真でも意図的に隠す、見せる、錯覚させる事も出来るよね。現実をベースとしつつも、写真独自の効果で目で見た以上の感動を引き出せる可能性もある。
    超広角や圧縮効果、シフト・ティルト、被写界深度の制御、色や線の描写、露光時間、マクロ。
    現像でもあらゆる制御が出来るし、人間の目のダイナミックレンジを有る意味超えたHDRIも含めて。

    見た人がどう感じるかは、制御不能だな。
    ただ、行った事も、その目で見た事も無くても「日本の原風景」とかいって、それなりの数の人間に共通の哀愁を生ませる事も出来る。
    知識と経験から生み出した錯覚か、集団的無意識か。

    乱文失礼。

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  2.  日本人が共通に感じるだろう哀愁――なんてものも、映画やら何やらでそのように学習されただけのモノかも知れない。
     田舎の夏の風景を見ると、心を揺さぶられる所があるが、しかし、実際、そのような場面に出くわした事がない。
     もっと言えば、そうした定型的な風景は、映画やアニメを作る人間のテクニックに落ち着くところかも知れない。そうなると、もはや、そうした映像を見たときの感情は、写真が狙うべきものではないのかも知れない。

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