2018年12月9日日曜日

金を払うという事(長文ツイより)

 Skebの手数料13.6%が法外だって話で思う所があるから連投してみる。
 高いって言っている絵師は、じゃぁ、自分で宣伝して営業して代金回収して、回収できない時のリスクも背負い込んでやっていけるんだよな? って話で済むのだけど、それだと乱暴なので色々。

 詰まるところ、時間的にせよ技術的にせよ、自分に出来ない事を人にさせる事に関しては、それがなんであれ、お金を払うのが一番の敬意であるんだよ。否、お金じゃない方法は色々あるかも知れないが、それは賞賛を送るとか、そんなもんではなくて、パトロンとして面倒を見るとかそう言う事ではあるのだが。
 お金の力は絶大だというのは、例えば、何処かでデカいビルを建てたとか、長いトンネルを掘ったと言っても、その功績はやはり、その技術を持っている国ではなく、それをさせた、詰まり金を払った国にあるんだよ。
だって、誰が作ったかよりも誰の持ち物かってのが重要だからね。
 「大阪城を作ったのは誰?」「大工さん」と言う冗談があるが、じゃぁ、その大工の名前をどれぐらいの人が知っているだろうか? 当時としても、そんなにいなかっただろう。それと同じだ。
 お金を払うというのは、そう言う威力があることだ。勿論、技術を持つことやその成果物に対しての尊敬は別だが。

 ここまで書くと、拝金主義と言われそうだが、否、言われても構わないのだが、その技術を持つ人が、成果物を出し続けるためには、金がなくてはならないのであって、それを過小評価する人は、その成果物の恩恵に与る価値はないと言うことだ。それは、絵を描くことでも、営業して成果を出す事も同じだ。
 時折原価厨と呼ばれる人が、色々言うが、コストというのは、そう言う見えない所こそ絶大であり、そして、その絶大な部分こそが、コストの本質なのだ。
 つまり、自分に出来ない事をする事に対する対価なのだ。
 そして、所有権を持つと言うことでもあるのだ。
 勿論、所有権を持つと言うことと、人生に満足度を持つ事は別だ。

 ある人が、個人でログハウスを建てましたって時に、まぁ、それはそれで凄いねとはなるけど、多分、どこぞの金持ちが豪邸を建てましたって事よりもインパクトは薄い筈だ。
 多分、その金持ちは釘一本も触ってすらいないだろう。
 だが、それでもそれは金持ちの功績だろう。それは所有権を持つからだ。
 では、じゃぁ、その金持ちはそれに対して、どれほどの価値を見出しているだろう? まぁ、その豪邸のために沢山稼いで、頑張ったという価値はあるだろうし、人によってはそれが人生のゴールかも知れない。
 だが、その満足度は、所有したことそのものに対する満足であろうし、或いは、それで浮いた時間と手間暇で、別の収入を得て=詰まりその分の価値を生み出していたわけで、それはそれで評価されるべき事である。(まぁ例外もあるが)
 ぶっちゃけ、豪邸そのものはどうでもよくって、そこでやるパーティーが人生の悦びかも知れない、或いは趣味で鉄道模型を広げる部屋が欲しいのかも知れない、人に文句を言われず大音響で映画を見たいかも知れないし、大声を張り上げて歌いたいのかも知れない。それ自体が評価されなくても。
 それは、その人の人生の価値であり、お金の価値とはまた別のことである。だが、その価値のためのためにお金を使っているので、それは地続きである。

 翻って、ログハウスの製作者は、ログハウスを作ることに人生の悦びを見出しているかも知れない。また、それはそれで価値であるのだ。
 ものの価値というのは、畢竟、金か自己満足に還元される。そして、それをどっちの価値で見て批判するのも意味はないことだ。
 逆を言えば、作る事の偉さと、金を払うことの偉さを別個に考えて、それぞれ評価出来ない人は、愚かな事を宣うことになるのだ。
 モノを作る事の価値が絶大であっても、森羅万象を作る訳には行かず、誰かしらの力を借りてそして、それに対価を払って人間は生きているのだ。
 それが人間と言うものだ。自分にできない事をできる人を軽視する人は、それに対価は払えないし、そう言う人間は重大な矛盾を抱えるのだ。
 尤も愚かしいのは、その矛盾に気付かず、人に不平不満を垂れ、人に頼って生きている自覚もなく、社会への還元とのバランスも取れぬ、ただ、(如何に金と労力を払わずに)消費するかにしか、興味のない人間である。