あけましておめでとうございます。
抱負と言えるほどはっきりしたモノは御座いませんが……
お金に余裕が出たら何か買いたいよ。去年は、カメラもレンズも買わなかったから。
でも、特に必要なレンズがないんだな、これが。
実は、このところのカメラにすら興味が向かない。どうしたものか。何かでませんかね? もっと根源的に問うようなカメラ。撮る事を強要するようなカメラ。
いやぁ。分かりやすい話ですが、写真そのものとは何だ、と言う哲学的な話よりも、多くの人は技術的な話を好む。
その技術的な話も、「何故」よりも「如何にして」を大切にするようだ。
そんなことよりももっと人が好むのは、道具のお話だ。
道具はあくまでも道具であり、使う事と愛玩すると言う価値しか認めない。買った事そのものの達成感は、実際、長続きしない。
ギャンブル、SEX、買い物……依存症の類は、根っこは強い刺激を常に求める所にある。(そういう風に脳内物質が働いたり働かなかったりしている)
新しいカメラを買う刺激というのは、所詮、外部からそれを導入しているに過ぎず、一つ過ぎれば虚しさが増す。
孤独な人間は、無計画に孤独を紛らわせてはならない。孤独は、君の後をつけて、より強力になって襲いかかってくるぞ。
技術も単に知っているか知っていないかの問題である。
持っている、持っていないかの問題に近い。
無知は罪だと誰かが言った。あれは嘘だ。無知は損なだけだ。
損をしたくないという気持ちが、技術を欲する。新しい事は、新しいモノよりも、孤独をよく飼い慣らしてくれるだろう。
だがしかし、本当に必要なのは、何を求めているのか? と言う事ではないのか?
どんな写真を撮りたいのか? と言う問い。
美しいものを手にしたい? 美しいと言うのは、極めて主観的だが大丈夫か?
己の技術を誇りたい? 誰に? 誰が君を褒めてくれる?
新奇な対象を撮った如きでいい気になるんじゃない。
複製を手に入れたことは、何かを奪ったことにも与えたことにもならない。
よい写真――表現とは、それを見た人間から決定的に主観を奪い、その影響を長きにわたって与え続ける事である。
と、エライこと言いつつ、旧年と変わらぬ様でやっていくことになるんじゃないかなと思います。
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