2013年1月11日金曜日

新奇な被写体

 貴方はブログをやっていたとしよう。主に自分の写真を人に見せるためのブログだ。
 あるとき偶然、何かのキャラクターを写真に収めたとしよう。
 それがどういう具合か、その手のファンからのアクセスを多く集め、お褒めの言葉を沢山頂いたとする。
 それに気をよくして、貴方は、そのキャラクター或いは、同種の写真をもっと多く撮る事を第一に考えるようになる。同類の方々からのアクセスは、貴方の期待に応え伸びたとしよう。

 そこで、はたと考える。果たして、彼等は私の写真を見て悦んでいるのだろうか? と。
 はっきり言おう。それはない。彼等はそのキャラクターの写真が欲しいだけで、ある一定のクォリティさえ確保していれば、誰がどんなカメラで撮ろうと知った事ではない。
 貴方が渾身の力を入れて撮った風景写真より、適当な気持ちで撮ったキャラクターの方が、人々のウケがいいのは明白だ――そのジャンルが盛り上がっている間は。



 変わっている、珍しいと言うだけで、シャッターを切るのは二つと半分の意味で危険だ。

 第一に、その写真を見た人は、何を見るだろうか? 写真ではなく、被写体を見る。
 つまり、それは貴方以外の誰かが撮った写真でも問題ないはずだ。もっと言えば、貴方よりも写真の腕の立つ人がいるなら、わざわざ貴方が撮る必要もないと言う事だ。

 第二の理由は、それでも貴方が"変わっているモノ"の写真を撮りたいと言う動機に関わる。
 それは、「私はそれを見た、体験した」と言う主張の為の写真になる。そうなると、写ってさえいればよく、写真そのものについて、何一つ顧慮せずにシャッターを切る事になる。
 いや、日常、色々な場面で撮影する事もある。記録のため、友達に自慢する為、近況報告の為、様々な事情で、そのような写真を撮る事は、デジカメ全盛のこの時代、誰も咎める事ではない。
 だがしかし、そうして撮った写真を、「作品」と呼んでしまうのは、(アウトサイダーアート的な理念を持つならいざ知らず、)いささか感性を疑う。
 「変わったモノを見かけた」事に対して、"真の写真を撮りたがっている人"が抱くべき事は、「私は(かつて)被写体を目の前にした」と言う感慨ではない。

 最後の二十パーセントの意味だが、これこそが危険のエッセンスであり、あらゆる創作、表現に通ずる隘路である。
 それは、珍しさや目新しさが目的になってしまう事である。
 何かを作るとき、「何故それを作るのか?」には、何らかの思想や、動機、目的があるはずである。
 "人にそれがウケた"事に気をよくして、ウケばかりを狙うと、目的を見失う。

 いや、人を驚かせるのが目的だと言う人もいる。しかし、純粋に人を驚かせて云々と言うなら、ストリーキングでもやればいいのだ。それを選ばず、何らかの方法を選んだ時(勿論、無数の選択肢の中で全裸になる事を選ぶ時もだが)、それが他より優れているなどと考えた理由があるはずである。
 その理由を早々に手放してしまうと(あった事さえ意識しないと)、驚きが目的化してしまう。そして、遂には手段を選ばなくなる。
 そうしたとき、犯罪的な行為か、低俗化か、さもなくばマンネリ化により、人々の支持を失う事になる。

 マンネリとは、様式化の事である。
 人々の支持を失うマンネリと、様式化した芸術と何が違うかと言えば、それは思想の有無となる。

 ここで言う思想とは、一部のポストモダニストどものよく使う、難しい言葉を使い、口舌を尽くして、どうにかこうにか自尊心を維持しようという"テクスト"ではない。
 それが言葉に出来るから偉い、出来ないから粗野であると言う比較は惨めだ。
 素晴らしいものは、当人が語らなくても、それを見た頭のいい人、本当の意味で頭のいい人が、胸に落ちる言葉を見つけ出してくれる。

2 件のコメント:

  1. 難しいこと考えて写真撮ってんなw

    面白いものを見た、コレは見たら驚くぞ、という思いを写真という手段で発信することに何がそんなに引っかかるのかな?
    仮に写真としての「作品」と呼べないものでも、それはその人の着眼や感性、大げさに言えば人生そのものから生まれたという意味では立派な「作品」といえるかな、と思ってる。
    旬な話題で盛り上がるのは人間、良く有ることで。旬を過ぎた話題の写真は写真として優れていないと価値など無いに等しいかもしれないけど、正に旬な時期なら酷い写真でも別の価値があるんじゃないかな。iPhone開封の議の写真みたいにw

    意地の悪い見方をすれば「俺は真面目に考えて写真撮ってるのに、適当に人目を引く写真とってチヤホヤされてる奴が居るのは気に食わない」と言ってるみたいだぞ。

    ある死体写真家さんが、「みんな俺の写真を見てくれない。死体の善し悪しばかりで写真の善し悪しを言ってくれない」と仰っていた。
    珍しい被写体なら人の心は「それが何か?」に向いて興味を持つし、写真好きはひとしきり写真として観た後、撮影手段なんかにも思いが移ってしまったりする訳で・・・哀しい話だな。

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  2.  物珍しい被写体を撮影するのは非芸術的だという事ではなくて、その死体写真家の人と同じで、写真の善し悪しとか、何故死体の写真なのか? と言う写真そのものの意味を持っているかどうかが重要。

    ロラン・バルトよろしく、
     最初のうち、「写真」は、不意打ち=驚かすために、注目に値するものを写す。しかしやがて、よく知られた逆転現象によって、「写真」は、それが写したものこそ注目に値するものである、と宣言するようになる。そこで《何でもかまわないもの》が、最高に凝った価値となるのである。

    とある。

     ちやほやされているだけの人間は、遠からず飽きられるか、自分が飽きるから、「他人事だから気にする必要はない」程度の意味では、問題はない。でも、それは写真じゃない。
     みんなで共有して、楽しんで、凄いなと思う写真は、その限りでは価値があるけれど、それは写したものに価値があるだけで、写真そのものの価値じゃない。

     被写体の価値と写真の価値の見極めは、戦闘機乗りが重力によるGと機動によるGとを区別できないぐらい、難しい事なのではないか?

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