ドール撮影はやっぱり今ひとつだったけど、気を取り直して、散歩、散歩。
しかし、調子に乗ってるときは、一ヶ月に三本ぐらい撮れるけど、今回はなかなか進まず、スローペース。
何とか、今月の一本と言う事で、月一ペースは維持しているけど、来月は厳しそう。大丈夫か?
うんぐうんぐと、構図ばかり考えていて、構成を考えられない私です。
もっとドラマチックに! とか、人間を撮らない写真は、遅かれ早かれ厭きるよね。
と、色々言われるし、その通りだと考えるけど、スナップの名手よろしく、人の写真は撮りにくいもの。
肖像権とかで訴えられたら、絶対に負けるし、基本的に挙動不審な人間なので、何もしてなくても、職質とかされやしないかとか思うと、全然心休まらない。
ロバート・キャパが、戦後日本に来て「日本は写真家の天国だ」とか言ってましたが、今は地獄だねぇ。下手に子供の写真なんか撮ったら、確実に逮捕、拘束、前科一犯ですよ。
いやぁ、怖い。怖いから、写真撮れない。
プライバシー権がどうのとか、自意識過剰だとか、何か疚しいことがあるのか、とかそういう事を言うつもりはないけど、つまらん時代になったもんだ。
ただ、六十年前の写真に写った子供を見て、その写真に価値があるのは、その子供が追跡不可能だと言うことにあるのではないか?
インターネットが発達した今、そんな写真でも、ひょっとしたら誰であるか特定できてしまうかも知れない。否、デジタルネイティブな世代だと、産まれたときから(親が用意した)Facebookのアカウントがあって、赤ちゃんの頃から、写真が集積されていたりして、容易にその歴史を追跡できてしまう。
怖いとは言わないし、それはそれで楽しい未来だが、想像力で遊ぶ事が出来なくなる、明け透けな日常と言うのは、醒めた目で見ると虚しい。
ある特定の人生が彩りに満ちて見えるのは、概ね脚色されているからだ。
大きな事件ばかりに遭遇している人生だって、(そうは見えなくても)大半は何でもない日常で満たされている。
「自分史」って言葉が流行っているのか(それとも流行らせたいのか)、自分の人生を装飾させたい人ばかりだが、そういうのは「他人が見て楽しそうに見える」事を目標にしてしまう。
人に「自分は幸せだ」と言っても、己に向き合って、「俺は幸せなのか?」に回答できなければ何の意味もない。
そういう事をやっていると、高度経済成長期や、バブル期にありがちな「俺はコレを所有した」事に注力するようになる。
当然、写真もそのようになる。
それが果たして豊かさなのか……
何であるか分からないものが、そこにあったのだと言う感覚は、写真を見る態度として残しておきたいものですね。
0 件のコメント:
コメントを投稿