2012年12月31日月曜日

写真のこれから

 年も終わりなので、将来について幾つか考えてみよう。

 はっきり言うと、近い将来、写真の腕なんてものに頼らなくてもよい時代になる。
 それは、職人がやっていた仕事を機械が低コストで高速に、それも正確に成し遂げるようになるのと同じだ。
 新聞記事や文芸作品を書くコンピュータが現れるぐらいだ、シャッターさえ切らなくなる。

ピント

LYTRO社(https://www.lytro.com/)のLight Field Cameraの発売や、『東芝も「ピント合わせ不要」のカメラを開発』(スラッシュドット)と言ったニュースが今年話題になった。
 要するに、ピント合わせなんて特に必要のない時代が来ると言う事だ。
 ところで、AFなんて……って言ってた人種は、今でもしっかり生きているかな?

解像度

今まで以上に解像度の高いカメラが出てくるのは間違いない。そして、それは瞬く間に低価格化することになるだろう。
 光学的な高解像度化は、回折限界で一旦終止符を打つだろうが、それでは終わらない可能性がある。
 超解像技術である。
 これは、単に写真のシャープネスを高める程度だとか 民生用の技術だと思われがちだが、元々は偵察機や偵察衛星の撮った低解像度の写真から、出来るだけ多くの情報を得るために力の注がれた技術だ。(超解像技術とは呼ばれていないだろうけど)
 我々の持つカメラ以外にも、防犯カメラの解析ソフトなどに使われており、伸びしろはまだ大きい。

構図

解像度が高くなってくると、大抵の場合は、一つの写真から切り出せばいいんじゃないか?
 と言う考えに至る可能性は高い。
 現在でも、「切り抜きを考えて大きめに写真を撮る」と言う場面もあるそうで、今後はその方向性が強くなると考えられる。

決定的瞬間

カシオが1,200fpsのカメラを出したのはもう四年も前の事だ。研究用の分野では、その十倍以上の速度で撮影するわけだけれど、この方向性が進めば、動画から好きなショットを切り出せば良いと言うことになる。
 解像度の問題や、フレーム間補完の関係で、写真の代替となる時期は先かも知れない。しかし、極端な事を言えば、写真よりも動画の時代かもしれない。
 写真が動画より優位であったのは、かさばらず持ち運べたからだ。今では、誰でも再生機を持っている。

プロの写真vs素人の写真

アマチュア写真家が愚かにも口にする言葉に「プロのように」と言う言葉がある。
 そういうのは大体、プロのような機材と言う意味だったりするのだから、お笑い種である。
 プロは己の仕事の為に、多くの時間と費用を投資しているわけだから、簡単にその域に入る事はできまい。
 また、目的意識も違う。納期までに、限られた時間で、求められた絵を撮影するのが、プロの仕事な訳だから、単なる「綺麗な写真」だけではダメなのだ。

 だけれど……その写真を見るのも素人となると、その写真はオーバースペックになりやしないだろうか?
 商品撮影や、雑誌(Web上の記事)などの分野では、記者や担当者が一眼レフを手にして、自分の手で撮影する事は珍しくなくなった。
 当然、その人は、写真を撮るために特別な教育を受けたわけではない。(全くの素人と言う事でもないだろうけど)
 プロの写真の方がよいに決まっているが、予算的な問題が立ちはだかるのは容易に想像が付く。
 そして、カメラの技術は、そう言う人でもそれなりに使える写真を生産してくれるようになった。

 素人がグラビアを撮影するようになる事はないだろうけれど、一流とされない……それこそ町の写真館と言ったレベルの人の仕事はますます減っていく可能性が高い。

写真vsCG

写真家の仕事がソフトウェアに置き換えられる時代」(スラッシュドット)に出ているように、CGを用意してやれば事足りる時代も遠くない。
 今時の製品は3DCADなんかで作られるし、3Dプリンタも使われ始めている。三次元データは手元にあるのなら、テクスチャとレンダリングをしっかりすれば、商品を撮影しなくてもよくなる。
 また、商品そのものがない段階から、商品の写真を用意できるのだから、商品撮影をするよりもずっと早い納期を設定できると言う利点もある。

そんなわけで

「誰でも綺麗な写真を安価に手に入れられる」と言う傾向は、今に始まったわけではない。
 そして、それは今後もより進歩していくだろう。

 写真を切り出すことや、CGを指して、「邪道」だとか「そんなモノは本当の写真なんかじゃない」と言う人が出てくるだろうけれど、見分けが付かなければ同じである。
 精神の話も出てくるだろうけれど、そう言うならば、精神を映し出す写真を撮る必要が出て来る。

 具体的に言えば、肖像画の役割の多くは、肖像写真に取って代わられたが、それでも絵を描く人は沢山いるし、それで生計を立てる人々もいる。
 恐らく、写真もそう言う方向に行くだろう。よりアートである方向へと向かうだろう。
 そうしたとき、「写真とは○○である」と言う固定観念は、全く役に立たなくなるだろう。
 その時、高いカメラで綺麗な写真を写しただけでは、誰一人褒めてくれなくなる。求められるのは「突き刺す写真」である。


岡本太郎の言葉を引いて締める事とする。
(今日の芸術は)うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない。


良いお年を。

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