2013年3月30日土曜日

誰もが撮るようなものを撮るな

 以前、物珍しいものを撮るなと書いたけれど、それは嘘ではない。
 簡単に言えば、物珍しいものと言うのは、誰もが撮影したがって、数多くの写真が残るものだ。

 京都に行って舞妓さんを見かけたとあれば、みんなが写真を撮る。
「何か良いいいものないかな」と思って高いカメラを下げている連中は、ここぞとばかりに写真を撮る。
 みんな群がってカメラを向ける。それなら、代表一人が撮って共有すれば良いじゃないか? でも、SNSの発達した今でも、馬鹿のように写真を撮る。

 こういうのは、写真を撮ると言うよりも、被写体を撮る事になる。
 被写体の希少性そのものが価値になるのなら、一定のクォリティ以上ならば、誰が撮った写真でも同じだと言える。
 偶然自分しかその場に居合わせなかったというならば、それはその人の手柄になるだろう。江戸時代末期に写真を撮った外国人のようにね。
 でも、こんなにもカメラが増えてしまった時代に、「カメラを持って出かけた」事そのものが価値を持つと言う事は当然考えにくいことである。

 撮り鉄が何かの最後、最初の時にこぞってたむろするのは――その中には"にわか"もいる。特別電車が好きなわけではないが、「何か凄そうだから撮っておこう」と言うだけの人も含まれるだろう。
 技術的、機材的な話をすれば、前者の方が立派なんだろうけれど、所詮は、その状況の稀少さに根ざした写真であり、極端な事を言えば、自分がそこに立ち会った記録のためだけに写真を持つ事になる。

 コスプレの写真もそうである。
 レイヤーさん同士が、或いは知り合いのカメラマンと一緒に行動して、良い写真を撮りたいと思っている場合ならば兎も角、「誰でも良いから写真を撮ろう」となるカメコは、結局、写真を撮った事実を欲しているだけである。
 嫌な言い方をすれば、「可愛い女の子に声を掛けることが出来た」と言う自分の満足の為だったりする。
 コスプレに関しても、新しいジャンルが出てきて、或いは誰もやっていないネタを見つけて、喜んで写真を撮る場合がある。コミケやワンフェスのコスプレ広場でありがちな光景だけれど、これも、"その場にいた、見た"証拠のための写真である。

 別に、その類のカメコや撮り鉄が、いい加減な写真しか撮ってないと断言するわけではない。
 しかし、それこそ、偶然そこに居合わせたから、ケイタイだのコンデジだので撮ってますよって人と、本質的に同じ写真を、「俺は知ってますよ」と言う顔で撮っている人は多い。
 巷に出回る写真を見てみれば分かることだ。単にフレームに入れる事だけを念頭に入れている写真は、何処かしら垢抜けない感じがして面白みはない。


 オリジナリティだの、独創性だの、はたまた独自性などと言う言葉が持てはやされる余り、「人と違う事」だけが価値だと思う人がいる。
 偉大なアーチストの作品が個性的なのは、個性的な作品を作ろうとしたからではなく、アーチスト自身が個性的であるから、或いはその考えを突き詰めたところに個性が産まれただけである。
 極端な事を言えば、無個性をとことん突き詰めたところにある抽象的な作品は、そこに込められた思想により個性を獲得するのだ。

 尤も、芸術作品に関したって、(それを商売として成立させるために)希少性を与えて、価値を高めようとする人がいるし、そうした種類の「価値」を求めて大枚をはたいて喜んでいる人もいるだろう。
 だが、それは、作品を成立させている一条件であって――もっと言えば、「価値」そのものでさえ、「無価値」なのだ。

 外部から導入した「価値」や「希少性」を個性に結びつけようという成金が、"相対的に個性的だ"と言いたいが為に藻掻いている姿を見て、「ああなりたい」等と考えるのは、惨めな事だ。



 物珍しい被写体を、物珍しさ以外の断面で撮影する写真家がいる。
 身体障害者を、身体障害者と言う視点以外から撮影する人、或いは、その部分を個性として撮影する人がいる。
 そう言う人は、「奇異な姿を捉えたい」なんて考えずに、社会的、或いは思想的な問題や純粋にフォルムの問題と捉えるだろう。
 報道写真の中で、際だって素晴らしい幾つかの写真は、証拠能力そのものを超えて、それが社会的に与えるインパクトに価値が存在する。

 重要なのは、何を撮ったかではなく、何を考えて撮ったかと言うことになる。
 だからこそ、写真を趣味にする人ほど、フィールドで作品を作る人ほど、社会的でなければならない。そして、社会性とは、社会的ステータスや年齢などと言った「外部から導入された価値」の事では断じてない。

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