2013年3月29日金曜日

勝手に撮られたくない


勝手に撮られたくない(http://anond.hatelabo.jp/20130326213747)

 肖像権の問題だけど、凄く気にしない人がいるよね。
 裁判になると、泥沼よ……

写真とLaw 第1回 訴えられた写真家(前編) Law and Photography Case#1 Photographer Who Was Sued (First Half)(http://betweenthebooks.com/wordpress/2012/05/11/arts-law-1-phillip-lorca-dicorcia/)

写真とLaw 第1回 訴えられた写真家(後編) Law and Photography Case#1 Photographer Who Was Sued (Second Half)(http://betweenthebooks.com/wordpress/2012/05/15/arts-law-1-phillip-lorca-dicorcia-2/)


 それを平気でやれてしまう人にとって、自分が写った写真を、一般に公開しただけで裁判沙汰になるなんて、とてもマトモな事には思えないんだろうけど、撮られた人にとっては、そんな写真を撮る人間の方がマトモじゃないんですわな。

 そういえば、「肖像権肖像権って言うけど、そのコスプレの著作権とかどうなの?」みたいな子供みたいな理屈をこねていたカメコがいたな……
 それが何で子供の理屈なのか分からない人の為に書くけど、人が悪い事をしているのは、自分が悪い事をしていい理由にはならない。絶対にならない。
 より程度の低い人を引き合いに出して、罪を正当化出来れば、人類は最低な人間を基準にルールが決められることになる。
 それはまるで、一番成績の悪い生徒以上の点数を取ってはならないと決められた学校のようなものだ。一人がクズなら、皆クズでなければならないなら、人類は全てクズの状態に留め置かれることになる。


 確かに、緊急性を伴う場合や、公益性の問題が生じる場合は沢山ある。
 政治家が、肖像権を盾に報道を管制してはならないし、犯罪の決定的証拠を撮影する事もある。
 もし、犯罪を目の前にして、自分にはそれに立ち向かう力がないとしたら、せめて写真を撮る事はできるだろう。Anthony K. Robertsの"Fatal Hollywood Drama"ように。

※「ピューリッツァー賞を受賞した10枚の報道写真とその背後にあるストーリー」の「7.凄惨なハリウッド・ドラマ アンソニー・ロバーツ/1973年」を参照。


 「違法行為の「撮り鉄」どう対処? “いいお客さん”ではないこと自覚して」とか「一般人には通用しない、“撮り鉄”の言い分」とか撮り鉄批判が高まっているけど、ネイチャー系の連中でも醜聞はしばしば聞くし、いけないところに足を踏み入れて撮影するクズは、立て看板の多さからも分かる。
 公園では、「俺の公園だ」と言う顔をして、人が撮影していると「みんなの公園だから、ちゃんと断りを入れろ」とぶっとんだ事を言うジジイに出くわしたりする。
 ヘッドホンをしながら、人混みの中で三脚を立ててイルミネーションを撮ってる馬鹿――サブカル気取りかもしれんけど、君のヘッドホンは、「邪魔だ」とか何とかって言葉を聞かないようにする為の道具だ。
 航空祭では、脚立が乱立するし、コスプレイベントの注意事項を見れば目眩がするほどだ。

 こうした人は、「自分は大層なものを撮っている」とか「俺が注目してやっている」と言う気でいるから危険だ。
 芸術的な効果で、社会に資する貢献をしていると勘違いしているかも知れない。

 本人が芸術だと思えば、どんなものでも芸術だ。しかし、芸術は――表現と称するあらゆる行動は、誰かのためにするものではないし、そのように主張して良いものではない。

 芸術でも科学でも、経営や政治は、本来は利己的な原理に基づいている。自分の可能性を試したい、もっと知りたい、もっとお金が欲しい、もっと権力が欲しい。
 「貢献」とか「価値」なんてものは、その行為を正当化するための道具だ。
 そこをしっかりと頭に入れておかないと――つまり、その上で、訳に立つと思う合理性なしには――簡単に理由と目的が顛倒し、そして本来の目的を自分自身に対しても隠してしまう。
 写真を撮る全ての人は、写真そのものには何の価値もないことを思い知らなければならない。


 あー、なんか、無茶苦茶写真とか撮りたくなくなってきたわー。
 写真とか、本当はクズな趣味なんじゃないかなぁ。

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