2014年3月10日月曜日

電柱と電線

 写真を撮ってる人間で、「電柱と電線は景観を損ねている」と言う連中は、多分、絵はがきみたいな写真しか撮れない連中なんだろう。
 観光地にありがちな、古い建物を漫然と撮って、ただ高画質なだけの写真を「綺麗な写真」と喜ぶ手合いである。

 写真や映像を撮る際、目障りになるあらゆるものを取り払うような人間は例外だが。



 (水没時に死ぬという問題が発生するが)防災やメンテナンスの面から電柱の地中化を進めたいという意見には、一定の敬意を払う。けれど、景観がどうこうと言い出したら、もう耳を傾ける必要はないと思っている。
 都市計画について何か含蓄のあるらしい言葉を発したいと思うなら、首都高をdisっていればいいだろう。電柱と電線の問題も、多分それと同じだ。(もう一度言うが、「地震の際電柱が倒れて、道を塞ぐ可能性」を排除するために、地中化すると言うなら別だ)

 「こんがらがった電線」と言うのは、アジア的或いは日本的な風景として欧米人から見られているきらいがある。
 まぁ、「ガイジンの価値観はなんでも優れている」なんて事を言うつもりはないが、そんなものでさえ、アピールポイントになるのだ、と知っている事は、無駄なことではあるまい。


 どっかの青年団だか、観光課の役人だかが、「江戸の風景が~」とドヤ顔で宣うのだけど、電柱を地中化したところで、アスファルト舗装も近代的なお土産品も、もっと言えば、そこいらを闊歩する観光客の服装も、まるっきり現代であるのだから、外見だけ取り繕った「ハコモノ行政」と本質的に何も変わるところはない。


 人間は誰しも頭の能力に限界があるから、複雑なモノの中で判断を下すとき、なるべく単純な基準やルールを定めたがる。
 デブな人でも思慮深い人はいるのに、「肥るというのは自己管理出来ない弱い人間だ」と決めつけたり、平和を好むムスリムも沢山いるのに「イスラム教徒は戦争を好む悪魔だ」と決めつける人もいる。
 人間は誰しも、先入観とか理屈のないバイアスを持っていたりするけれど、自分もそう言う弱い人間の一人だと自覚することは、蒙昧な価値観から脱する為に必要なことである。

 当然、電線が景観を損ねる場合もあるだろう。しかし、同時に、電線があるからこそ絵になる風景も沢山ある。
 その差を見極めるのが、人間の感性や審美眼というものではないだろうか?


 同じ事を繰り返すけど、電柱や電線を手放しで絶賛するつもりはないが、同時にそれを取り去れば景観が良くなると考える意見には与しないと言うだけだ。

 自分の頭で考える事や、心で感じる事の出来ない人は、誰かが作ったルール通りに従えば傑作となると思い込むし、本質的なものを見逃して、見当違いな論評をして悦に入るだろう。
 表現の善し悪しに代用変数なんて存在しない。

 こうしたモノの考えは、年寄りが忌み嫌う「ゲーム感覚」と同じものだ。
 愚かである事は、その限りで平等である。