2013年12月31日火曜日

自分語りでも

 僕の写真体験は、実に否定的なものばかりだ。恐らく、僕の写真に関しての意識は、それに強く裏打ちされている。

 写真に限った話をするなら、人生の初期に於ける、実にクリティカルな出来事は、小学五年生の林間学校での出来事だ。
 正確に言えば、林間学校の数日後の出来事だ。
 ハイキングだの、キャンプファイヤーだのに同伴したカメラマン(と言っても街の写真館の主人か何かだ)が写真を撮って、後日それを掲示、各自好きな写真を申し込むと言う方式で、当日の写真を手に入れる事が出来た。

 その中で、僕は僕がメインで写っている写真――背景には軽く映り込む程度の人影しかない――を選んだ訳だが、学校の嫌われ者だった僕は、底意地の悪い人間が結託して、写真を買い占められた事を後に知る。
 その写真屋も、何故申し込まれた数だけ焼き増ししなかったのか謎であるが、兎に角、教師からは売り切れて渡す写真がないと、支払った現金が一枚分だけ返却された。

 買い占めた連中や、アホな写真屋、何の調整も出来ないクソな教師に向ける腹立たしさもあったが、そう言うものが過ぎ去ってみると、実際、僕がそのように写った写真に何の価値もない事に気付くことになった。

 僕があの場にいたという記憶だけは、僕のものであり、そして、写真を奪ったところで、僕からそれが消える事はないという事を、この時悟ることになる。
 それ以降、僕は記念写真というものを、人並みに評価することは出来なくなった。
 どれぐらい関心を失ったかというと、その時の写真が紛失したままにして、全く気にならないぐらいだ。
 そして、今、僕の子供の頃のアルバムを全部焼き捨てると言われれば、強いてそれを止めようなどとは思わない。

 尤も、幼少期の実に酷い写真の数々を積極的に焼き払う事もしない。
 僕がそれをそうしないのは、己の過去をそんな風にして否定してやろうと思わないだけだからだ。
 人間は、どのような形であれ、過去が自身を形作る。
 物証があると言う事が、自分の価値を高める訳でもないし、同時に何らかの恥ずべき出来事も、物証を消し去れば己自身の価値を落とさないで済むと言う事にはならない。
 写真を残したからと言って"賢く"なる訳でも"偉く"なる訳でもない。人に自慢したところで誰も君を評価しないだろう。

 それ以降、大人になるまで、僕は、写真機と言う道具を、その程度に過小評価していた。
 否、それなりに写真を撮る事自体に興味がなかった訳ではない。しかし、それはせいぜい、男の子が機械に興味を持つという程度の事だ。
 「写真は表現の手段である」と言う事に気付く前の頃の話である。


 他にも幾つかの否定体験と、紆余曲折から僕は二十歳そこそこの頃にカメラを持ち、またカメラから離れ、そして再びカメラを持つことになったのだけど、その辺に関しては、とりわけ面白い話はない。
 小さな事に、少しずつ気付いていったと言うだけのことだ。気が付けば何かを書くかも知れないが、多分、今日ほどのボリュームで書くことはないだろう。



 もう一つ、僕の写真に対する態度を決めているのは、僕が"無感動な男"であると言う事だ。

 目の前に有名人が現れ、また彼がファンの写真撮影に対して好意的であったとしても、僕はRollei35もD300も、iPhoneも取り出さないだろう。
 鉄道は子供の頃、好きな方であったが、今は別に、目の前にドクターイエローが現れても驚きはしない。
 格別に好きなアニメキャラも声優も、或いはアイドルもいないので、イベントに出掛けたいとは思わない。
 コスプレはどちらかというと、洋裁に対する興味の方が強い。
 人と話をするのは嫌いではないが、特別にそうしたいと願う人物は、有名無名を問わず存在しない。

 特別に撮るものはない――それこそが、写真に対して深く考えさせる何かである。


※ドクターイエロー
 新幹線の試験車両の事、黄色い塗装はまるで「黄色い救急車の都市伝説」を連想させるが、半可通な人に言わせると、レアキャラらしく、見ると幸せになるとか何とか訳の分からない"伝説"が勝手に作られている。
 名駅で既に何度か見かけたが、私が幸福であるかどうかは、見ての通りである。