と、予防線を引いておく。
まぁ、去年に引き続き……なんて話なんだけどさ。
①相変わらずミラーレスの話だけど
ミラーレスが好調だという話は、最近聞かない感じだなぁと。
要するに、コンデジ使っていた人が、スマホとミラーレスに移ると、それ以上流出元が確保できないって事なんだなぁと。
残る一つの流出元である一眼レフからの乗り換えだけど、これははかばかしくないんだろうなと。
特に欧米ではなんやかんやで、デカイカメラの方が好まれるみたいで、「人の好みはそんなもんだ」と言われると、そうなんだろうなと。
もう、暫く前から言われていることだけど、m4/3だって商用撮影に使えるぐらいの性能がある。でも、クライアントが不安がるからor安く見られるから、結局フルサイズの一眼レフ使ってるよと言う話がある。
KissFを首から提げた男が、ミラーレスをdisってたなんて笑い話もあるし、その辺からするとどうしようもないんだなと。
尤も、カメラは見た目で選べという僕だから、デカイカメラ持った自分が素敵と思えば、そーゆーのでええんでないの? と言う所か。
特に印象的な現象と言えば、SONYのα7の事だろう。
あの大きさ、あの軽さなのにフルサイズというのは、実に素晴らしいことだが、思ったほど反応が薄い。
それはまるでマックのサラダみたいなものだ。マックでアンケートを採ると、必ずヘルシー志向のメニューが欲しいと言う要望が無視できない数出てくる。それを真に受けて、低カロリーな商品を出してみるのだが、客は反応しないという話だ。
フルサイズのミラーレスは、随分以前から待望論を耳にしていたが、結局、こういうスペック志向の連中は、デカイカメラが欲しいだけなのだ。
デカイのがお好きなら、マミヤでもペンタックスでも中判買えばいいものだが、要するに欲しいのはニコンなりキヤノンなりのロゴであったりするのだろう。
結局、一眼レフは今後も売れ続けるのだろうと思う。ミラーレスの性能が追いついたとしてもね。
その頃には、もう、人間の網膜から映像を撮れる時代になってるから、どうでもいいかなとか(ん
②APS-C一眼レフは衰退するのか?
ニコンに関して言えば、ラインナップの重心がフルサイズにシフトしつつある気がする。
正確に言えば、APS-Cのボリュームそのままに、フルサイズのラインナップがどんどん肥っている。
現在、無駄に幅の広いラインナップを取り揃えているが、リソース的に大丈夫なん? と心配したくなる。
先に書いたように、一眼レフからミラーレスへのシフトが思うように行かないなら、APS-C一眼レフを絞っていく理由はない。この辺のジレンマが生じているのかも知れない。
少なくとも、世界的な動きとしてミラーレスが売れ出さない限り、ニコンのどっち付かずなラインナップは解消されないだろう。また、キヤノンも本腰を入れてミラーレスを開拓しようなどとは思わないのかも知れない。(この前、漸く二代目のカメラを出したけど、レンズは未だに三本しかない訳だし)
③コンデジはどうなるのか?
カシオに関する記事(カシオが「高級コンデジ」を作らないワケ)を読む限りでは、販売予想がキチっとしていれば、まだまだ商売やってけるって話なので、そういうもんなんだと納得するしかないかなぁと。
しかし、細る市場の中で、ニッチなモノを提供するってやり口は、トイデジを出していくのと似たようなモノで、黒字にする事は出来ても、デカくはなれないんじゃないかなぁと。
個人的には、ソニーのRX-1/Rなんかは、実によいカメラだと思うのだけど、あんな値段出して、単焦点でレンズ交換も出来ねぇカメラなんて、写真好き(not カメラ好き)しか買わない。
世の中は、写真好きよりも、カメラ好きが多く、そして圧倒的多くの「写ればいい」と言う人がいる。
もっと悪い言い方すれば、こんな高級コンデジよりも、ブリッジカメラの方が「それっぽい」訳だし、「写ればいい」人からすれば、高倍率のズームの方が望ましいのだ。
確かに、スマホに出来ない事をしたくて、且つ一眼レフを買うまでもない人が買うカメラとなると、ブリッジカメラは悪い選択肢じゃなさそうだ。
充分割り引いて考えても、そこそこのズーム倍率があるコンデジを選んで、妙な機能や、凝った性能はあんまし求めないだろう。
ただ、スマホの画素数がずっと上がって、デジタルズームがもっと綺麗になる可能性はあるし、笑顔検出だの動物検出だのもソフトウェアの問題だから、"コンデジ"に拘る理由は少ないかも知れない。
前にも書いたように、カシオのEXILIM EX-10やキヤノンのNなどは、写真表現としては実に有意義な試みだが、カメラを持つ人の中で、表現を目的としている人が、現実問題、どれぐらいのボリュームあるのか? と言う問題である。
④写真を撮る人はどうなる?
アマチュアの世界は、まぁ、どうだって良いよ。
フィルムカメラ使う人が増えることは考えられないし(お
そんな事よりプロの話だ。
まずは、シカゴサンタイムズのカメラマンをリストラした話、結局再雇用することになったとか。
「カメラマンをクビにしてiPhone撮影に切替えた新聞社がカメラマンを再雇用することに合意
(GIGAZINE)」
とは言え、コレって不当解雇だってモメてた労組に折れたって話で、「iPhoneの写真じゃダメだったわぁ」って話じゃないからなぁ。(背景の一部にそういうのがないと断言は出来ないが)
そう言えば、何処かの子供写真専用スタジオは、プロのカメラマンを頼むんじゃなくて、育児経験のある女性を雇って、写真技術を教え込むんだとか。(子供の扱いに慣れているから)
確かに、同じスタジオで撮るわけだし、同じ構図を使いまわしても文句なんて言われないから、ある程度の技術を教えれば、それぐらいできるわな。
一方、子供の扱いばかりは、研修してどうのって出来ないから、この考え方は合理的なんだなぁと思った次第。
写真も写真で、決定的瞬間の方がクォリティより優先される訳で、今や誰しも携帯電話にカメラが付いている時代なら、その瞬間が写った写真なり動画なりを報道は欲しがる。
こういう写真をツイッターに上げた直後、何処の馬の骨とも知れぬ記者が"使用許可"を願い出ている光景も、今や珍しくなくなった。
常駐のカメラマンを多数配置しなくても良いと言う事か?
勿論、「プロの方がいいって分かっている。でも予算がないから、社員が(記者が)写真を撮るんだ」と言う話はよく聞く。
でも、予算に対して削減しても良いと言う対象であるなら、所詮はその程度の仕事なのだろう。
カメラの性能が上がっているから、写真技術の技能者なんて特に必要ないんだよねと。
そう、技術者としてじゃなくて、センスとか或いはネームバリューがないと使う意味がないんだねと。
更に、CGのコストも凄く下がっている。今の工業製品は3D-CADで設計されている事が多いから、モデリングも楽ちんで、モックアップを作る事なく広告を打てるのだ。
携帯電話みたいなライフサイクルの短い商品となるとスピードも要求され、設計段階から広告を作れるメリットは大きい。
こういうシフトが、現場レベルでどれぐらいの規模で起こっているのかは知らない。でも、「食える食えないで不安に思うならプロなんて目指すな」なんて話があるぐらいだから、アマチュアのプロごっこで楽しんでいるなら、そこに安住するのは悪くあるまい。
⑤写真共有はどうなるのだろう?
前から変わらない傾向だが、これからはより刹那的なものになるだろう。
例えば、僕は写真を撮る数が少ないので、フィルム写真をネットに上げる時なんて1シーズン遅れぐらいになってしまっている。
だが、人々が求めているのは「今」の感動な訳だから、年末になって、桜の写真や向日葵の写真など出しても誰も反応しないのだ。
それどころか、忘れ去られる事さえ求める動きもある。
Snapchatである。
このサービスが、今後どれぐらいのポジションに残っていくのか不透明だが、しかし、バカッターよろしく、犯罪自慢を喜ぶ向きには快適なサービスであるに違いない。
証拠は残らず、「面白いヤツ」と言う評価が残るのは、彼らにとって実に都合のよい事だからだ。
消える消えないは別として、少し前の"話題"なんて誰も見向きもしない。
タイムラプスやHDRなんてのは、ひとたびネットニュースに流れると、あっと言う間に消化されて、続報を誰も待ってくれない。
そうして、そうしたネタを、遅れて誰かがツイートなんかすると、「もう一月も前のニュースじゃねぇか」と苦笑いされてしまう。
一方、「保持していれば誰か見てくれるだろう」と言う希望も、多くの人が持ち続けるに違いない。
それはないにしても、自分の家の(いつ壊れるか知らない)HDDに仕舞っておくより、ネットに上げておいた方が安心できるという現実的な考え方を持つ人もいる。
そうなってくると、大きな容量で写真を管理するサービスと言うのも重要になってくるかも知れない。
この辺は、管理コストの問題から、有料サービスとなる訳だが、Flickerの改悪(課金ユーザは容量無制限だったものが2TBまでの制限になった)から考えると、上手く実現するのは難しそうだ。
革新的な大規模記憶装置でも登場しない限り状況は変わらないだろう。
「サービス事業者は、ユーザーのことを分かっていない!」と嘆く人もいるかも知れない。
でも、写真趣味のユートピア的なものは簡単に作れない。
「pixivやニコニコ静画の写真版を作ればいい」などと考えてはいけない。写真表現趣味の人なんて、イラストを描く人よりも(そして、カメラ趣味の人よりも)少ないのだから。
結局、価格コムみたいなところで、他人の装備を馬鹿にする所の方が理想的なのかも知れない。
⑥写真表現の未来
誰にでも綺麗に鮮やかにシャープに写す事が出来る時代に、高解像度の全自動のカメラがどれほど意味を持つのか僕には分からない。
大多数は、それでもそう言う「よいカメラの写した写真」を「よい写真」と読み続けるだろう。
別に「珍しいモノを、綺麗に鮮やかにシャープに写す」写真が反芸術的とかそう言うつもりはない。それも極めれば立派だ。多くの人を感動させられるだろう。
その他に目を向ければ、様々な試みを見つけることが出来る。だから、今の人々は実に自由にやれているんじゃないかなと。
勿論、「自由だからと言ってクソつまらねぇカフェの写真だの、散歩中の駄犬の写真をフェースブックに載っけて"日常の記録"とかゆーとる連中はくそ食らえだ!」みたいな意見もあるだろうけど、その辺は好き勝手にやらせておけばいいんじゃないかな。
自分の気持ちいいようにやる事をやって、それに共感してくれる人と楽しくやれればいいんじゃないかなと。
「人の意見には素直に従うべきだ」と煩い人がいるが、そう言う人は「自分の言いなりになる人物がいる」と言う事に悦びを得ているだけの人なので無視した方が良い。本当に必要な意見というのは、相互の信頼関係の中に生ずるものである、人生の教訓について通りすがりの人間が貴方に教えることが出来るのは、せいぜい"不味い方法"ぐらいなものだ。
人に好まれることを目的にすると、自分を偽ることになる。偽った自分を好きになってもらったとしたら、その好きを維持する為に、貴方は永遠に己を偽り、そして無理することになるだろう。
多くに好かれることは、表向き優れたことだろう。
しかし、SNSで趣味が細分化された時代、「程度の悪い人間のクラスタ」の中で一目置かれる存在が、果たして人間そのものとして優れていると言えるだろうか?
小さなサークルの中で、紅一点の女性が褒めそやされていたからと言って、その女性が美人で性格が良いかというのも別だ。
また、ニコニコ動画で人気のある歌い手が、エンターテーナーとして素晴らしいかと言うのも更に疑問だと言える。
重要なのは、人の動機に惑わされぬ己の判断力を信じることである。虚栄心を捨て丸裸の自尊心を持つことである。
僕の写真を好む人は極めて少ないだろう。しかし、それがどうしたのだろうか?
0 件のコメント:
コメントを投稿