自撮りって言葉がなんとなく語感が悪く感じる。
[ジ]の音が、なんとなく焦げ茶がかって、イメージとの齟齬がある。自分の得ている違和感について、色々考えた結果、その結論を得た。
自萌えなんて言葉があるけど、あれも妙に気持悪い。自惚れのように、「うぬ」と読めば良いのだが、なんだかなぁである。
ジで始まる言葉が何でもキモイって訳じゃないけど、どちらかというと、安定したモノ、硬いモノの感じがするから、不安定な存在である自分を撮る事や、真実の姿でない自分の可愛さに萌える事など、語感がしっくり来ないのだ。
まー、重箱読みだ何だとそれらしい理由を見つけられない事もないが、こじつけ臭いしなぁ。
[ji]なのか[zi]なのかで、状況も変わるかも知れないが、そこまでその手の学問に明るくないので、この辺にしておく。
どっちにせよ、イメージの問題だから、私固有の問題なのかも知れないが。
でまぁ、ずっと前に「自撮りもええもんだなぁ」的な事も言ってるし、NikonSDKで、自撮り向けテザー撮影ツールを作っている自分に対して、「昨今の自撮り棒バッシングとかどーよ」的な事を言われそうなんで、軽く説明しておく。
例の話の時は、浜名湖SAで一脚臭いなんかを振り回してたバカがいたって言ってたが、要は、人混みで使うから邪魔だし危険なわけで、そこいらの閑散とした公園で、親子が写真撮ってる分には、可愛らしくてええなぁと言うことである。
で、まぁ、自撮りって、言ってみれば、自己顕示欲みたいな"可愛いモン"の為に行う行為なわけで、僕は、人が持つ、そう言う自己愛というのを高く評価しているし、自己愛に自覚的である事は素晴らしいと思っているから、「自撮りもええもんだ」と言ったわけですな。
当然、人としてのルールを守っている範囲での話ですが。
自己愛より、隣人愛の方が素晴らしいと言うのは分かるのだけど、素晴らしいのは自発的な隣人愛であって、人に対してそれを要求するような連中は、実際、他人を愛するどころか、自分を愛することさえ出来ない哀れな人間なのだ。
だからこそ、先ず、自分を愛して、自分を愛することを通して、人を愛しなければならないのだ。
"自己愛が長じて、他人に否定的な人間"とは、実際は自己愛が大きいのではなく、。自分の用意した器に対して、自己愛が足りないから発生するのだ。
中二病は愛しい。自己愛の使い方に不慣れだからだ。
そう言う意味で、あの時期に、自己愛を育めなかった人は、その後の人生で、それが必要な時に持ち合わせていないとか、或いは歳を取ってから自己愛に目覚めると、悲惨である。
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