2014年2月22日土曜日

「誰かが金を払うならどんな物にも価値が生まれる」 - プブリウス

ヤフオクにすごい画家が出現!!値段もヤバイ!!
ヤフオク!


「誰かが金を払うならどんな物にも価値が生まれる」

 問題は、金を払う人が居るかどうかと言うお話なんですけどね。
 現代アートなんかでも、正直分からんのが、結構なお値段で取引されている事もあるので、その可能性に賭ければ云々と言うのはあります。

 しかしまぁ、こういうのって、思想とかストーリーなんかにお金を出している部分が多分にありまして、さもなくば、誰かがそれに価値を見いだしているからと言う事になります。

 前者で言えば、ゾウが描いた絵がとんでもない値段になるってあるじゃないですか。
 アレって、「ゾウが描いた」と言う事実もさることながら、それがゾウの保護に宛てられるってストーリーにもあるんですよね。

 昔のドラマですが、「古畑任三郎」のお話で、人間国宝の陶芸家が、古美術商の男を陥れるために、偽物の古い壺を作ったって事で、古美術商が陶芸家を殺すんですわ。(うろ覚え)
 で、その時、殺害に使ったのが、問題の壺の本物の方なんですよ。
 主人公の刑事は、「貴方は、咄嗟の事で、本物の壺を見分けられなかった」的な事を言って笑うんですが、古美術商は「あの人間国宝が、私なんかを陥れるためだけに、全力を注いだ壺なんですよ? 一方、本物の壺はただ古いと言うだけで、何の曰くもないじゃないですか」的なオチとなるんです。
 ものの価値というのは、そういう所に落ち着くんだなぁと。

 あと、「美の巨人たち」で、エドガー・ドガ作『マネとマネ夫人像』 の事をやっていたのも思い出します。(北九州市立美術館
 ドガとマネは親友同士で、お互いにお互い同士の絵を描いて、交換したんですが、その頃、マネ夫妻の仲は冷え切っていた。ドガは人間描写に優れた人間だったので、夫妻の絵を描いたとき、その情景をまざまざと描いてしまったのです。
 マネはそれに怒り、絵のマネ婦人の部分を切り取ってしまったんですね。
 ドガはそれにショックを受けて、自分の絵を持ち帰ってしまいました。
 尤も、その後のマネとは喧嘩をしては仲直りを繰り返すという、実に良い関係を続けていたようです。それを証拠に、ドガは、その青春の思い出に、絵を部屋に飾り続けた訳なのです。
 さて、ここからが話のキモで、ドガの没後、画商がこの絵を売ろうと考えたわけですが……なんと、残り半分を無地の状態にして、元のサイズに戻したんです。
 これは、「マネとドガとの物語」にこそ価値があると考えてそうしたんですね。そして、目論見は当然当たったわけです。


 しかしまぁ、ものの価値っていうのは、誰かがそれを認めないことには、一切お金にならないんですよね。
 日本円も、アメリカドルも、それを誰もが価値として認めているから、それで色々なモノと交換することが出来るわけですから。
 その価値が喪失する現象がハイパーインフレなのです。実際、第一次大戦後のドイツなんかは、ちり紙よりも価値が下がってしまったと言うぐらいなのですから。

 さて、そこで思い出すのは、フィンセント・ファン・ゴッホの絵ですね。
 今や億円単位の値段が付くような絵ばかりですが、生前、お金になったのは「赤い葡萄畑」一点だけで、400フランだったそうです。1890年の事で、1フラン500円ぐらいと換算すると、20万円ぐらいでしょうか。
 何はともあれ、それ以外は、誰も価値を認めなかったわけです。

 死後に価値を認められたと言えば、ヘンリー・ダーガーの「非現実の王国で(非現実の王国における、ヴィヴィアンガールズの物語 あるいは子供奴隷の反乱に起因するグランデコ対アンジェリニアン戦争の嵐の物語)」を思い出します。
 この作品、殆ど孤独なまま生涯を終えたダーガーだったが、彼の作品を大家で写真家であるネイサン・ラーナーが発見、紹介され、多くの人がその価値を見いだすことになる。

 ぶっちゃけて言えば、この人は実に運が良かった。(本人は遺品は処分しろと言っていたので、有名になる事も価値を見いだされることにも関心はなかったのだろうけど)
 逆を言えば、沢山のヘンリー・ダーガーが存在し、誰にも知られぬまま多くの作品が葬られているのかも知れない。
 インターネットが発達したとは言え、作品を公開するとは限らないし、そうだとしても、誰の目にも付かない可能性はいくらだってあるのだ。

 そう言う意味で言えば、有名人が偶然知り合いにいるとか、有力な芸術家の息子であるとかと言うのは、実に運の良いことである。
 それは、親の七光りと言うものがなかったにしても、それだけ分、人に見られ、紹介されるチャンスが大きいと言えるのだから。
 勿論、それを生かすかどうか、本当に価値があるかどうか、或いは贔屓によって得られた栄光に意味はあるのか? などという問題は付きまとうし、その部分に於いては、実力云々に影響されるという事も強調しなければならないけれど。


 さて、そうもなると、本当の価値というのは、単にお金を支払われるかどうか? と考えればいいのかどうかも怪しくなる。

 「誰それの作品は、単に有名人の描いた絵というだけで、絵そのものには価値がないよ」と言われても、その有名人が描いたストーリーや名声に価値があれば、やはりそれはお金を払う意味を持つことになる。

 バンクシーが名前を隠し、姿を隠し、街中で絵を売ったというお話があるけれど、一枚が60ドルで売られたそうだ。八点売れたそうだから、そこそこの収入だといえるけど、サザビーズに出した六点の絵が8500万円以上にもなったって言うから、実に破格。
 しかも、値切った人も居ると言うから、まぁ、誰もバンクシーだって気付いていなかったんだね。

 もう一つの事件と言えば、リチャード・マットの『泉』事件が有名なところ。
 その当時でも、超有名人であったマルセル・デュシャンが、名前を隠して、男子用便器を展覧会に出品したというお話である。

 バンクシーにしても、デュシャンにしても、こういった事件を巻き起こすこと自体が芸術の一つだったりするわけだから、絵や便器の"価格"そのものに関しては、意味のないことなんだけどね。
(そう言うのが分からない無粋な人間が、「オリジナルの泉」探しに奔走したなんて笑い話もあるぐらい)

 さて、バンクシーの絵の"本当の"価値が60ドル程度なのかは分からないけど、人というのは、結局そういうものにお金を払っている、実に当てにならない存在だと言う事。
 一番最初のヤフオクも、実は超有名アーチストの絵なのかもしれないとか?

 まぁ、分からんし、どうでも良い事だけどね。


 最後に重要なことと言えば、価値は人それぞれだと言うもの。
 幾らお金を積まれても手放せないモノ(ってものがある人は幸せだけど)なんてものは、その最たるものだったりするのです。

 僕が、現代アートのいくつかに関して、「全く理解できない」と言うにしても、年寄りが若い人のマンガを「全く理解できない」と言うにしても、少数なのか多数なのかは兎も角、「価値がある」と認める人が居る以上、それは価値のあるものなのだ。(値段は別にしてね)
 「理解できない」のは我々の理解力が不足していると言うだけであり、それが劣っているとか間違っていると言う根拠にはならない。
 相手を否定するには、相手のことを正確に理解していなければならない。その上で、その理屈が誤っていれば、その時初めて、誤っていると指摘できるのだ。

 そこを突き詰めれば、ある人の下手な絵や写真を万人が否定したとしても、本人が「世界で一番の絵だ」と思えば、それを否定することは出来ないのです。
 単に、その価値を理解することが他の人には出来ないというだけなんでね。

 それに、その絵が今後も評価されないままであるかどうかも分からない。
 それこそ、1890年代の時点で、ゴッホの絵を誰が評価できたのか? と言う部分と同じである。

 この点は、科学技術にも似ている。相対性理論は現代社会ではなくてはならない理論の一つだけど(例えばGPSなんかが直接の恩恵を受けている)、を提唱したとき、それをどう応用できるかだなんて、誰一人として思いついていた人間なんていなかった。

 そう言う意味で、価値は主観であり、Twitterで何千RTされようと、大勢の人が大枚を叩くにしても、せいぜい"精度の高い主観"に過ぎない訳で、それを根拠に、絶対的な意味を説くのは間違っているのだ。


 そこで、もう一度最初に戻るけど――好きだと思えば、払えば良いし、馬鹿だと思えば、そっとしておけば良いんじゃないのかな?
 何にしても、騒ぎが大きくなるのは、作者の狙いなんだと思うし。

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