2013年11月29日金曜日

CASIO EXILIM EX-10

未来はそこにある。 シャッターを押せば、 そこに映っている。(WIRED)

 この前書いた話の続きになりそうだ。

 ぶっちゃけ、Nみてぇなカメラだなと(コラ
 尤も、このサンプルを見て、猛烈に欲しいとか感じない訳だけど、「写真の進むべき一つの方向」だよね。

 写真趣味のデストピアって、カメラ趣味だけが生き残り、人の評価を気にして、写真なんて一枚も残さない世界でしょ?
 こうなってくると、もう、誰も自分の基準で写真を見ることも出来なくなる。

 写真にとって大切なことは、それを見た時に何を感じるかだ。それは、当然、自分の写真に対する自分の意識も含めてのこと。
 自分の思い通りにカメラをコントロールできることは大切だし、己の感性に対して正直に写真を撮れるって言うのは大切かも知れない。
 けれど、その時、多くの人が希望する「きれいに、あざやかに、はっきりと」した写真ばかりが大切だと思い込む道を歩む事にはならないだろうか?
 いや、別にそれでもいいのだろうけど、「多数派こそが正義」と言う価値観は、せいぜい政治の中だけにして欲しいものだ。

 それが多数派である限り、自分は本当にそれを美しいと思っているのかを再検証しなくてはならない。人がそうだと言うから、自分にそのように思わせているのかも知れないと。
(同時に、少数派だから格好いいと言う感性も疑わなくてはならないが)

 いずれにしても、自身をより知る為には、自身の観念を破壊してしまわなければならない。
 己の美意識の限界ってものを、積極的に破壊しなくちゃいけない。

 色んな写真や美術品を鑑賞するのもそうだし、写真そのものに対する洞察も必要だ。
 そして、写真のもう一つの魅力として、己の意識しなかった意外性という部分も追加されるだろう。

 ここで僕は、偶然に任せた写真というものが嫌いだと言う事を告白しなくてはならない。
 どうしても、再現性を求めたくなる。
 しかし、それでよいのだろうか?

 僕は、偶然の何を嫌っているのだろうか?

 偶然現れた被写体を撮影して、それを我が物として自慢するのが気に入らないのだろうか?
 しかし、例えば、珍しい動物を探す為に、ジャングルに分け入って、何ヶ月も張り込んで……そして、偶然をたぐり寄せて撮影した写真を、「運が良いだけだ」と言う一言で済ませる事は出来ない。
 人は、「そうした場合と、偶然変なモノを見かけて、iPhoneで撮って沢山の"いいね"を貰うのを同列に並べるのが間違いだ」と言うだろう。
 そう、それはその写真の為に、どれほど努力したかと言う要素が加わるから。

 では、苦労したことが、何か意味を持つことなのだろうか?
 苦労した駄作を、我々は「それは素晴らしいね」などと喜べるだろうか?
 ジジイの写真に対する苦労話は、一時間一万円ぐらい貰わないと、とても聞く気にならないし、そんな事に我々は何も感動しない。
 「感動は、人並み以上の苦労があった場合だ」などと言う反論も出るだろうが、では「人並みの苦労」って何だろう? と言うお話になってしまって、これには出口がない。

 極端な話、大型猛禽類の写真を見た時、同じ場所で何時間も粘った写真なのか、それとも、爆竹か何かで脅かされて飛び出した所を捉えた写真なのか、それだけでは区別は付かない。
 確かに、後々、現場を知る人間の密告で、それが発覚すれば、写真の評価は下がるだろう。
 しかし、そんな事で価値の左右される写真に、何の意味があるだろう?
 昨日まで素晴らしいと言っていた写真が、その撮影者を嫌いになった程度のことで、駄作だ何だと騒ぎ立てるような写真が何の意味を持つだろう?


 我々は、写真に関して、その部分を究極として考えなければならない。
 逆を言えば、その部分を見つける方法が見つかれば、それはどのような形態であってもよいのではないか?
 そこに、キヤノンのNやカシオのEX-10は、機械的にそれを押し付けると言う方法で、答えている。
 他の手段としては、ノーファインダーであったり、センサーカメラであったり、はたまた"拾った写真"を再利用する事だったりする。
 写真は、己の美意識の範囲で作っていては、せいぜいそこまでなのだ。
 我々は、我々の写真を通して、写真を発見しなくてはならないのだ。