15.我々は何を得れば納得できるのだろう?
結論から言えば、そんなものが分かれば、今すぐ、その道に向かって、寄り道もせずに真っ直ぐ歩んでいる。
こんなエントリーを書く暇などないし、また、諸君もこの拙文など読むに値しないだろう。
目的がある人は幸福であるというのは、この点に於いても明確である。
しかし、我々は――ここまでに指し示してきた、幾つかの満足できるポイントを、敢えて見逃した我々は、生半可なことで納得など出来ないだろう。
16.先ずは最低な水準
賢明なる諸君は、卑怯な方法で撮影した写真を見て、「僕は正々堂々と間違った事をせずに撮ったのだから、それで満足だ」などという、小さな小さな自尊心を守るような人ではない。
人として、撮影者として誤ったことをしないというのは、せいぜい、その写真に対して負い目を感じずに済むと言うだけである。
それは人として正しいというだけで、当然あるべき水準に他ならない。
そうではない様な人は……我々の手でどうにかすべき問題ではない。
ただ、仲間内での"常識"に慣れてしまうと、その水準を見失ってしまう事も多い。
何処かの学校の鉄道同好会が、顧問の先生ごと鉄道施設に侵入して騒ぎになった事件がニュースになった。
これは、彼らの中では、それぐらいが許される水準だったのだ。
だから、容易に群れてはならない。
普段は喋らないようなオタクが、自分のジャンルに関しては、必要以上に喋るという事がある。
これは、単に仲間と見定めると、孤独さから解放されて、浮き足立っているからだ。
これと同じように、孤独であった人が、同じような人間と同じ場所にいると、視野が狭くなってしまう傾向にある。
こういう時、人はよく失点を犯す。
また、そのような状態は、孤独である状態に比べれば随分と気持ちの良いもののように錯覚するので、うっかりした事でさえ、実によく容認するようになる。
そして、皆が皆で、その状態に置かれると、外部に対する失点を無視するようになるのだ。
勿論、普段から群れ慣れている人は、前者のような愚かさを捨て去っているかも知れない。
また、充分に経験を積めば、後者のような失敗から、身を遠ざける事も出来るかも知れない。
君が、その点に於いて、実によく人と付き合い、また、多くの失敗を経験しているという時、何も恐れる心配はないだろう。
しかし、こうした心配を抱かない人に限って、そのような経験を持ち合わせていないか、或いは経験から学習することを知らない人であったりするのだ。
先の同好会の顧問は、学校の先生であり、年齢的にも成熟した大人であるはずだ。
しかし、大人というのは、自己の確信を持って大人だと叫んでいるうちは、まだ危険な状態なのだ。
何事も経験を積まなければ、そのような危険な状態から脱することは出来ないから、その危険に果敢に挑むと言う道もあるだろう。
だからこそ、群れる事を甘く見てはいけないのだ。
君が、大人であるにせよ、そうでないにせよ、最低な水準は、所詮最低な水準である。
つまり、こんなものは、実にどうでもいい話であり、そんな水準で満足しているうちは、"最低"の近傍に貼り付いたままなのだ。
撮り鉄を見て、「俺はあいつらよりマシだな」などと納得するなら、その人は、その位置から成長することは出来ない。
自分が大人だという確信は、自己のルールを定め、そこに安住する事である。
人は、大人になると同時に老化する。
老化とは、乾き、縮み、硬くなることだ。
しなやかさを失い、己を再構築する事の出来ない、ただ、熱的死を待つばかりの存在なのだ。
17.ハッタリ
極端な事を言うと、今日の写真作品はハッタリの世界とも言える。
下手くそな写真も、意図的にそうしたんだと強く言い張れるなら、それはそれで、一つの作品である。
様々な試みがある。
撮影条件を一切固定して、それで撮影出来ない被写体は撮らないと言う態度で撮影した写真集、近視である自分の目と同じ距離にピントを固定して撮った写真集などがある。
最近では、手ぶれ補正に反して、手ぶれを増幅させるなんて写真もある。
或いは、トイカメラだって、その「出来の悪さ」を「味」だとか「カメラの個性」だとか言って、肯定した所からブームが始まる。
言ってみれば、自分がそれを撮った動機や、撮り続ける理由を説明できなければ、ただ「綺麗な写真」を撮ったと言うだけに過ぎない。
尤も、世間は綺麗な写真を求めるし、現実的に、そう言う写真の方がやっぱり素晴らしいのだけど……
勿論、色々考えた結果、好きなものを綺麗なように撮るのが好きなのだという結論に入るなら、それはそれで素晴らしいことだし、そのような結論に至れば、"かつてそうでなかった時"よりも、より迷いなく写真が撮れるはずだ。
何故なら、その方向に集中することが出来るから。
18.自己追求
しかし、ここで留意しなければならないことは、人間というのは、よく自分に嘘を吐くと言うことである。
それは人に対してするより頻繁に、そして自身は、人にされるよりも容易に騙されるのだ。
だから、こうしたハッタリをキメるとき、自身を騙していてはいけない。
形振り構わず、強弁しろと言う事ではない。むしろ、そうしなければ写真が撮れないと言うのなら、それは自分に対して、あまりにも稚拙な嘘を用意してしまった事を証明する事に他ならない。
迷わないことは重要だが、迷いを忘れることは危険だ。
迷っていない状態とは三つある。
・視野が狭くて、迷っている事に気付いていない状態
・闇の気配を感じつつ、目を瞑って走っている状態
・全てがクリアになって、四方八方に闇が残っていない状態
何かに気付き、視野が広がり、迷いが消え去る。
そうして、更に未知の世界へ足を踏み出し、そして、またそこで、暗闇と出会うのだ。
そうした時、少しだけ後戻りしてみるのも悪くないかも知れない。
その昔、撮る事を捨ててしまった被写体に舞い戻ってみるのも悪くない。
また、馬鹿にしていた技法やカメラを見直すと言う事もある。
難しいことばかりが探求ではない。
探求とは、常に己を革命し続けることなのだ。
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