11.そもそも写真は、誇れる趣味なのか?
前回、前々回の文句を思い出そう。
馬鹿だろうが何だろうが、シャッターボタンをちょんっと押せば、写真は写るのである。
嫌な言い方をするなら、昨日まで芸術なんて見向きもせずに生きて来たジジイが、金にモノを言わせて、格好だけは一流のカメラマンって形に揃えたのを見て、妬まないで済むだろうか?
前回のお話よろしく、己に自信があるのなら、人のカメラなんかに気を取られることはない。
むしろ、それでメーカーが儲かるなら、その利益が巡り巡って良いカメラやレンズの開発に繋がるのだから、それは喜ぶべき事だと言える。
そもそも、写真趣味の裾野が広がることは、写真を撮るものとして、歓迎すべきである。
これは、あらゆる趣味に言える事であり、「絵の下手な奴はpixivに投稿するな」みたいな頭の悪い発言は排除しなければならないのだ。
と、言う事で、下手な写真が鬼のように氾濫しようと、我々は自分の信じた道を歩めば良いのだし、また、実際にそれを我が物としている人々が、この世界を牽引してくれる限り、写真という趣味そのものを卑下する必要はない。
――とまぁ、偉そうな事、言った所で、所詮アマチュアはアマチュアだ。同じ穴の狢さ。
その点で、無駄にこの趣味のことを誇るのは、ただただイタイ人である。
前にも言ったが、人に自慢する為に何かを始めるなら、別にカメラじゃなくたっていいのだから。
12.でも絵画と比べれば……
この感覚が非常に危険なのだ。
絵画に比べれば、実にお気楽に、手軽に、時間も掛けずに成果物を得る事が出来る。
この感覚に囚われると、手軽に撮った写真を見下すような態度を取るようになる。
そして、「苦労した」と言う事が重要になり、写真そのものの出来は二番目に評価する人が出てくる。
そのような人は、手始めにレタッチやRaw現像を馬鹿にし始める。
単純に、編集や現像を必要としない人、仕事上現像処理をする暇がないなど、正当な理由がある場合は別だが、素人が「JPEG撮って出しじゃないのは技術不足」みたいな事を言うのは、実に噴飯物である。
こういう手合いは、オートモードや絞り優先モードを馬鹿にしたり、マニュアルレンズを手に入れると、オートフォーカスを笑うようになる。
仕舞いには、フィルムカメラを持ち出し、デジカメ使ってる連中を見下す事だろう。
この現象は、デジカメが出てきた時の状況、顔認識や、AFの登場、はたまたAEや露出計の登場の際に、一々文句を付けてきた連中と同じである。
勿論、出てきたばかりのAEの精度は低かったと言うし、AFも頼りなかっただろう。そして、事実、それを理由にする"正当な意見"はあった。しかし、ここで軽蔑すべき人物とは、雑誌などを見て"プロも意見"を己の玄人気取りの為に使う馬鹿者である。
もう一度言うけれど「自分の撮影スタイルにRawがいらない」と言う人を攻撃したい訳ではない、「Rawやレタッチをしない」と言う事にしか、自分の写真の価値を見いだせない愚かな人を否定したいだけである。
「人間の手が入れば自分の力で撮ったとは言えない」と言う意見は尤もだ。
ならば、君は感光剤を自ら調整して、ガラス板に塗布したり、銀の板を磨いたりして、全てのプロセスを己の力でこなさなければならないはずだ。
フィルムにしても、センサーにしても、君以外の誰かが適切に、都合のいいように調整したものなのだから、それは君の力で得た写真とは言えないだろう。
「あなたはボタンを押すだけ、後はコダックが全部やります」とは、1888年の謳い文句である。
このような「飛躍しすぎる話」の根底にあるのは、結局「俺だけは楽してないぜ」と言いたい所にある。
この問題を、我々はどう克服すべきか?
簡単に言えば、歌と楽器演奏の違いと思えば良い。
この一言で溜飲が下がらないのならば、幾ら説明しても無駄なので、別な説明をしよう。
歴史的に、写真を絵画的な方向で発展させようと言う試みは、ピクトリアリスムと言われ、二十世紀初頭をピークにして、その後、衰退していった。
この時期を境に、写真は絵画の模倣から脱していく。
13.だけど努力が必要なのでは?
ここで努力論に走る事はしない。理由は馬鹿馬鹿しいからだ。
世の中の仕組みも、世界の美しさも、人々の心も、己自身の有り様とは別に存在している。
己自身がどうあるかと言うことに関して、努力は必要なものであるが、努力そのものが人々の胸を打つかどうかは別の話だ。
君が恋人とディナーに出掛けたとする、奮発してちょっと良い料金のお店に入った時、シェフが自分の努力話ばかりして、味としては実に酷い料理を出されたらどうだろう?
料理が努力として許されるのは、不慣れなパートナーの拙い朝食と、愛娘が初めて作った目玉焼きぐらいだ。
勿論、"方法"自体に意味を与えている芸術――写真撮影自体がパフォーマンスアートみたいになっている時はまた別だが、それはそれで、並大抵の努力では、誰も褒めてくれないだろう。
先の例で言えば、買ったフィルムを買ったカメラに入れて、「フルマニュアルで撮影しましたよ」なんて言った所で、「昔の人はそれを普通にやってたよね?」と、相手は心の中で独りごちるばかりである。
極端なことを言えば、貴方が花の写真のコンクールに出品する為に、花壇に足を踏み入れて「良い写真」を撮ったとしても、それを見た人は、それが如何なる方法で撮られたかを評価することは出来ない。
写真をインターネットに公開した時、電話回線を伝わるのはただのデジタルデータであり、また、印画紙にプリントした写真は、純粋にハロゲン化銀の反応生成物しか残っていない。
君の思いや、思考や気持ちは、別の方法を使って相手に伝えるしかないのである。
それ以外の方法で、人間の手による写真なのか、機械的な方法で撮られた写真なのかを、確実に区別できる方法があるなら是非教えて欲しい。
PCで描かれた手描き調の絵を見て、「手描きっていいですね!」なんて褒められた絵描きさんの話を思い出すと良い。
人間の感性とは、どだい思い込みが優先されるばかりだ。
「人間の手による温もり」などという怪しげな概念に囚われて、盲目的に「手作業が入った方が素晴らしい」と考えるものではない。
14.結果があればそれでよいのか?
ある面では、その通りだと答えよう。
但し、先の例で言うように、「花壇の中に入って撮った写真」が素晴らしい写真と言えるだろうか?
銀塩カメラなんて捨てて、みんなデジタル化してしまえばよいのだろうか?
もう一度思い出さなければならないのは、我々は何の為に写真を撮るかと言うことである。
人から褒めて欲しいと言うだけの動機については、先回、既に置いてきた。
私は、そこで、自分自身を納得させなければならないのではないのか?
銀塩写真を選ぶ理由は、それが自分の選んだ手段であり、また、自分が行いたいと思うことに対して、有効なツールであると言うことだ。
モデルの美しさを残したいという時、デジタル中判カメラを用意しなければならないならば、それを手に入れる努力が必要だし、スナップショットの為には、軽くて機動性の高いミラーレス一眼が丁度良いと言うこともあるだろう。
そして、そう言う事情は、人によって異なってくるだろう。 同じものを撮るにしても何が最適であると、神が何かを決定した訳ではないのだから。
最初の話で、道具に対する負い目の事に触れたが、人の道具を見て笑う人間――ミラーレスはイマイチだとか、フルサイズ最高だとか、メーカーは何処がいいとか――は、その程度の人間であるのだ。見下すべきではないが、憐れむべきだろう。
偏に、我々は、小手先の方法論や、道具に何を使っているのか? と言うことに関して、悦に入ってはいけないのだ。
次回は、どうやって、自分を納得させるかと言うことについて考えていこう。
0 件のコメント:
コメントを投稿