2013年7月14日日曜日

何のために何を撮る?

 自分が写真を撮る動機が甚だ希薄で、全く己にも朦朧不明で全く見当が付かない。

 共依存的だと笑われるかもしれないが、何かのために何かをするのが人間であり、何もないのに何かするのは、動物でなければ病気の証拠である。

 貧乏揺すりも、組んだ足の足首を回すのも、しきりに奥歯隙間を使って息をするのも、本人に不都合がないって言う一点だけで病気と呼ばれないのであって、知的障害者がCMや車内放送の台詞をぶつぶつと繰り返す事と何ら違いはない。

 一挙手一投足を制御できる人間を求めるのは、仙人か武芸の名人ぐらいで勘弁して欲しいところだ。しかし、それでも、自分が何をしているのか、理由が必要ではないか?
 否、正確には、そこに込められた理由を、自分自身が意識的にしなければならないのではないか?


 写真を撮ろう。
 何故撮る?

 記録のためか?
 何を記録する必要があるのか?
 記録して、いつ誰が見る?
 仕事の記録でもないのに、記憶以上の何を要するというのだ?

 記録なら写ってさえいれば文句はないだろう。
 その写真で満足か?

 よい写真を撮ろう。
 何故撮る?

 人に見せて評価されたいからか?
 よし、そうだ。そうだろう。
 Twitterでリツイートされて、ふぁぼられて、Facebookでいいねを押されて、Google+で+1されて、コメントを貰って、褒めて貰って……
 ああ、それは良い事だ。

 だが、思ったほどそれは貰えない。
 じゃぁ、どうする? もっと人に見てもらうためにあちこちに貼り付けるか?

 大体、人に評価される写真がよい写真なのか?
 人々は、僕の写真そのものではなく、写っているそれを評価しているだけではないのか?
 自分が美しいと思って撮った写真は、それほど評価されているのか?
 注釈を入れて、説明して、それを理解してもらえるか?

 自分にとってよい写真を撮ろう。
 何を撮る?

 何が自分にとって良い写真なのか?
 自分がいいと思っているのは、人がそう言うからではないか? 或いは、人が撮らないから良い写真と思うのか?



 誰もが撮っている写真を撮る事が何故面白くないのか?
 自分は撮る必要がないからだ。
 やはり、ここでも、誰かが必要なのか?

 自分には何が必要なのか?

 "ただそれをした"と言うだけの事を、自己表現という言葉で飾りたくない。
 人には分からないが自分は大層なことをしているのだと悦に入る事だけはしたくない。


 そこまで来ると、人に理解されて、且つ自分も納得出来る写真を撮らなければならない。
 それはどんな写真なのだろうか?
 遠くに出掛けて、技巧を凝らせば、それらしいものは撮れるけれど、そんなものは、世の中に溢れかえっている。
 その写真は、やっぱり必要な写真なのか? 被写体の写真であって、自分の写真なのか?

 もう、写真行為そのものを純粋に楽しむ事が出来ない。

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