2014年10月20日月曜日

代用特性

 世の中は複雑だ。人生も何もかも複雑だ。そこで何かを正当に評価するには、あらゆる条件を勘案し、裏の裏まで考えなければならない。
 人間、何をもって幸せなのか、皆好き勝手に言っていて定まらない。自分自身の幸せを誇示するために、金だ家族だ、社会的地位だ、果ては会社にどれだけ無料奉仕したのかだなんて言い出したりする。
 それらは、それぞれ正しいし、人によっては、その中の一つで満足するだろう。一方、思いついたもの全部あっても満足しない人だっている。結局、これに関して、何が頂点であるだなんてものはないのではないか?

 ヒントとして、適応地形という考え方がある。
 動物が進化していくとき、より多くの子孫を残すと言う目的(=山の頂点)に向かって、様々な特性を変化させていく。
  子供をたくさん産む、一つの子供を大切に育てる、長くしぶとく生き残る、細かいサイクルで環境の変化に敏感に己を作り替えていく……様々な特性を発揮した結果、山の頂点に立った者が生き残る。
 この条件と結果を、仮想的にグラフにしたのが適応地形という考え方だ。
 山には大小、様々な頂点がある。そして、そういう中で、それぞれの生き物は、各々の頂点を目指していく。

 人間の幸福も、様々な形で幸福の山を登っていき、その為の条件は、複雑に絡み合う関数となるはずだ。
 お金だけでは幸せになれないが、全くのゼロでは山に登れない。国の中がギクシャクしていては、安定した家族を築けないが、社会が放埓的過ぎれば、家族の紐帯が保てない。科学技術が全て幸福につながる訳ではないが、公衆衛生や医療の充実がなければ、沢山の子供が死んでしまう。
 家族に囲まれ貧しくも幸福な生活をする人は、それはそれで一つの頂点であるし、物質に囲まれつつ、愉快な仲間と楽しくやっていればいいという頂点もあるだろう。これは、どれがいいのだという事を独善的に決めつける事は出来ない。


 さて、ここからが写真ブログネタである。
 びっくりした事だが、未だに画素数信仰を持っているおバカさんがいるという事に吃驚した。
 いや、画素数云々と言う話題で、他人を見下したいと言うなら、最高級のデジタルバックでも手元に用意しておいて欲しいものだが、このような手合いは、どういう訳か、フルサイズ一眼レフで大満足している。己の知識の範囲で、最大のものを手にしていたいという願望だけで生きているのだろう。
 画素数信仰の愚かさに関しては、様々なサイトで百万回ぐらい書かれているだろうから、わざわざ僕が取りまとめる必要もないだろう。

 何にしても、「よいカメラ」には様々なタイプの頂点がある。
 ハッセルブラッドもライカもよいカメラだが、どちらが(カメラ全体の中で)最高であるだなどと言ったら、嘲笑され、その程度の人として余生を過ごすことになるだろう。
 僕がD810を手にしたのは、画素数が良かったからではない。自分が使うとき、様々なスペックを見比べ、触り比べ、ちょうど良いものを検討した結果として、あのカメラがあっただけの事なのだ。だから、そこに拘る理由もないし、悪いところを上げられたら、それもそれで仕方ないことだと諦めるだけだ。


 人は、自分が選び取った「最高」の評価を維持したがる。自分が間違いを犯したと思いたくないからだ。
 そして、自分自身の選び取った基準に自信がなくなると、他の基準で上手くやっている人に嫉妬心を抱くものだ。
 その他の基準の存在を認めたくないあまり、他の(出鱈目な)特性を持ち出し、或は嘘や思い付きで、決めつけたりして、他の人を貶めようとする。
 しかし、幸福なんてものは、各々が各々に対して独立した存在であるわけだから、見かけ、相手が不幸に見えるように努力したところで、自分の幸福の量が増えるという事は、絶対にありえない。

 僕は、他の人が言うように、幸福な人間でも有能な人間でもない。
 収入に関しても、交友関係にしても、障害の事にしても、人に自慢できるものはない。
 だからと言って、それが他の人が幸福であるとか、有能であるとか、価値があるだとかいう事を証明もしなければ、補強もしない。

 自分が、今、何かを問われ、それに対して明確な答えがないとしよう。その時、他の何かを使って、人を負かそうだなんて考える瞬間があれば、それは実に不幸なことだ。
 重要なのは現実だ。
 貴方の頭の中で、誰彼は俺より無能だとか、不幸だとか、役にただないのだと思い込み、それを人にも共感してほしいだなんて考えたところで、それは全て、仮想上の幸福だ。
 勿論、そのような、自分の中に閉じこもった幸福も、また、一つの幸福でもあるのだけれど。


 これは、もう、紀元前から言われることだ。
 人は時として、自分自身が幸福になることよりも、人から幸福だと思われることに血筋を上げる。
 何故なら、自分自身で幸福の事を考えられない人は、他人にその評価を任せるしかないからだ。
 審美眼がなければ、自分の目で見て絵画を鑑賞することはなく、自尊心がなければ、他人と比較して、自身を維持するしかなくなる。

 貧しさとは何かといえば、「ちょっといいものを食べようとした時、いつも行く牛丼屋のメニューの中で、高いものを選ぶ事」と言うことだ。
 同じ金額なら、別の店に行く事も出来ると言うのに、そういった選択肢が、自由度がその人の中にない事を指す。

 様々な選択肢の中で、自分の幸福を自由に見つけ出す。
 沢山の芸術作品の中から、(他人が何と言おうと)自分の心に訴えかける作品を見つける。
 深い深い自尊心を持てば、己の生きにくさに対して、己の中から、自信を無限に汲み出せる。

 人生の目的云々なんて分からない。分からないからこそ自分で考える必要があり、自分で自分を見つめる事を放棄した人が、人生の目的を手に入れられるはずがない。
 自分の頭で考え、自分の力で選び取ったものならば、その目的に対して迷うところがない。
 逆に言えば、人の選択、人の生き様、人の幸福、人の美意識――そうしたものを尊重出来ない人間は、自身のそうした価値観に自信がない証拠である。

 他人によって、飾り立てられた言葉に魅入られ、出所不明の、それらしい言葉で理解したつもりになり、拾いものの、刺激的な言葉に踊らされる。
 他を馬鹿にしないと成立しないものなら、幸福も、審美眼も、自尊心も、全て偽物だ。
 そんなものが、本当の人生だろうか?