この事実が、写真趣味に暗い影を落とすことを肝に銘じなければならない!
大切なことなので、二度言いました。
8.目的を持てないなら、無理に持つ必要はない
何故、写真に対して、興味を持てないのだろうか?
それは、きっと「誰が撮っても同じだ」と言う感覚だろう。
ぶっちゃけて言うと、撮り鉄の連中が、駅のホームに鈴なりになって、珍しい電車やらを撮っている姿を見て、「馬鹿じゃねぇの」としか私は思わない。
一方、彼らはそうした行為自体が楽しいのだから仕方ない。
コスプレ写真とて、それを撮ったからと言って、レイヤーさんが手放しで喜んでいるなどと馬鹿らしい妄想に浸るのはよした方が良い。
君が充分に容姿の整った人間ならば、カメコとして跳梁するよりも、自分もレイヤーとして活動した方が、友達も出来るだろうし、あわよくば恋人だって出来るかも知れない。
多くのカメコは、自分がその場にいたという記録が欲しいだけなのだ。
だから、無目的な写真を求める人は、無理にコスプレイベントに出ない方がよい。
芸術的な写真を撮りたいのなら、異性の友達を見つけるなり、モデルを雇うなりして、個人撮影に徹するべきなのだ。
兎にも角にも、我々は、目的というものを見つける事が出来ない人間だ。
見つけた目的にさえ、無理のある部分を見つけて、簡単に放棄してしまう。
それは何故だろう?
人と違う事を求めているからだ。
9.好きなものがない事が強い訳ではない
世の中で、尤も惨めったらしい趣味とは何か?
それは、人の趣味を否定する事である。
こういう人は、「他人が好きなものを持っている」と言う事に憎しみを抱く悲しい人間である。
否定する言葉を吐いて、一方的に勝ったつもりになれるなら、全ては自分の足下に位置すると言う妄想である。
言葉で否定しただけで、その存在の価値や大きさが変化するという事はない。
人を貶しただけで、相手の幸福が減ると信じている人間は実に多いが、それは己を惨めにするだけである。
このような人間は、確かに、その認識の中では幸せでいられる。
こうした発想を突き詰めると、「好きなものを持たない」と言う事が、人類最高の地位を持つ事になる。つまり、空っぽな人間は、己の存在価値を最大限に保つ事が出来る。
"自分では何もしない人間"にとって、これ以上都合のいい事はない。
君がそれによって、見事に幸福を味わい、また、己を生かし続けることが出来るのならば、私はその人の趣味を否定しない。(軽蔑はするが)
この趣味の亜種は、「Appleを賞賛する言葉よりもWindowsを馬鹿にする言葉を沢山持つ」ような人間である。
無趣味な人間がヲタクを馬鹿にしたり、クソサブカル野郎のサブカル批判であったり、兎に角、誰かの頭を叩けば、相対的に自分の地位が上になれると信じる人間である。
これは、V社のドールしか認めないとか、S工房の着ぐるみしか萌えないとか、C社のカメラ以外はカスだとか、そう言う事を言う連中と同じである。
まぁ、そう言う人間だけが固まっている分には、好きにしてござれとしか言わないけれど。
写真という素晴らしい趣味を持っているにも関わらず、自分は他と違う人間だと言う意識ばかりが先行した場合も、また同類である。
同じような格好をしたカメコの群の中で、自分だけが素晴らしい写真を撮れると信じる手合いだ。
また、「人と違う」と言う事だけに価値を持つ人間も同類である。
本当のところは、他のアーチストのカーボンコピーであるのに、自分こそは違うぞという顔で落書きをして回る連中である。個性を求めて、却って没個性になる馬鹿な奴らだ。
人と違うと言う事は、別に人より価値のあると言う事を意味しない。
「みんな違ってみんな良い」とは道徳の教科書じみているが、しかし本質である。
違っている事は素晴らしいが、それは別に君に特別な地位を与えている訳ではない。
それが無根拠な自信を元としているのなら、尚更惨めである。
10.誰でも出来る事に何の楽しみがあるのか?
さて、わざわざ、これだけの文章を読んでくれている賢明な読者ならば、このような状況に身を落とすという事の意味が解るだろう。
比較する事の無意味さを考えようと言う事だ。
人生でも同じである。
幸福は計測する事などできないし、数量に変換できないものは、 比較すら不可能である。
人は、それぞれ自由に高まる必要があるのだが、それは己を超越する必要があると言うだけだ。
人は、人に褒めて貰うと嬉しくなるものだから、ついつい、人から褒めて貰う事を意識するようになる。
しかし、大多数の人間は、君とは違う審美眼を持っている。
そうなると、その審美眼に自信のない大多数は、(それは、専門家という顔をして審査する人々にもしばしば見られる傾向だが、)分かりやすい基準を設定して、その数を数えて、点数として、順位として、それを掲示するようになる。
背景のよくボケた写真は、どことなくプロっぽく見えるし、鮮やかでクッキリした写真の方が綺麗に見えるだろう。
目を引く被写体の方が面白い写真に見えるし、人は常に珍しいものを探すものだ。
そう言う良い点を人は数えて、「この写真いいね」と、種々のソーシャルボタンを押すのだ。
しかし、そんな事とて、実体としては虚しいのではないのか?
人がそうして押した数を競った所で、自分自身が何かを得るだろうか?
確かに、有名になれるかも知れない。上手く行けば収入に繋がるかも知れない。
それ以上に、そうである事が、自分の存在証明に感じられるだろう。
勿論、その価値観を否定する訳にはいかない。現実的に、人間はそれを快楽と感じるのだから。
問題なのは、
①人よりも審美眼のズレがある人間
②何処までも他の人と同じものしか作れない人間
である。
これは、①の時、自分が「いいな」と思ったものを、他人が同じように思わない時であり、②の時、自分が「いいな」と思うものを用意した時、大多数の人間も同じものを用意した時である。
①でも、②でも、人はさほど喜んでくれない。
人は、①を見た時は、不出来に見えるあまり、他のノイズに埋もれて仕舞う。②の時は同等な者が大量にあるので、「いいね」の分け前が分散されるからだ。
こうした時、無理にでも、人目の引くもの、人の喜ぶものを撮りに行くと言う選択肢もあるが、それに虚しさを感じるなら、今すぐにでもそれをやめるべきである。
(そんな苦労をしても、嬉しいと思う瞬間の方が大切だと言うなら、その道を放棄する事を薦めはしないが)
重要なのは、人と同じ事でも、また違う事でも、同時に苦しまないことである。
克服するのは難しい。
自分だって、苦しむ事ばかりである。このまま無意味な写真を撮り続けて、人生を終えるのかなどと考えると怖いのだ。
しかし、こうした考えを持つ事は、一つの清涼剤として働く事は間違いない。
さて、ここで一段落しただろうか?
いや、違う。
今度は、写真そのものに対して不信を抱く事になる。
そんなに立派な趣味なのか? と。
次回は、それについて考えていきたい。
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